運命というもの

昔は本当に赤い糸なるものが存在しているのだと思っていた。
友達と、ふざけて赤い毛糸を小指に結んだりしたかわいい時代もあったものだ。
この、小指の先で結ばれている誰かを探せば、私の将来の結婚相手である。

けれども、最近本当にそんなものがあるのか疑問である。
赤い糸を信じるのであれば、まず運命というものを信じなければならない。

私は、怠惰な点から言えば運命論者に違いない。
それが運命だと思えば、何事も諦めがつくからだ。
そうでも考えないと、収拾がつかないことが、この世にはままある。

だから、自分が一番苦しくないで解決する方法といえば、物事を「運命」という二語におさめてしまうのが一番てっとり早いし、身もだえするような後悔にさいなまれないで済むからだ。
けれど、実際にはそんな簡単なことですまないことくらい承知している。
何事にも、自分が決死の努力をしない限り、結果はついてこないのだ。

努力というのがあまりに大変だから、人間は「運命」という言葉に全てを丸投げするのである。
そういう怠惰さが運命論の根本にあると思うようになってからは、それに先立ってまず自分がぎりぎりまで努力をしなければならないということを感じるようになった。

やることをやらないで、結婚相手は見つからないということ。
赤い糸は、仮にあったとしても、自分で必死に手繰り寄せないと先が見えないのである。

なんていってもまだ先が見えていないのであるから先が切れているのにずっと待っているなんてこともあるかもしれない。
そんな馬鹿な法はない。
とはいえ、非常に疲れる人生観であることは否めない。

もし運命というのが本当にあるのなら、何もせず、手をこまねいていても道が拓けるようなことがあるのなら。
私はやはり怠惰である。

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