自分のセクシュアリティというもの
人間は、何時自分のセクシュアリティを自覚するのか。
人生問題のテーマである。
私は、幼稚園生の頃初めて男に負けたくないと思った。
そう、スカートめくりされてから。
スカートめくり、あんなしょうもないものが流行ったのは何時からだろう。
非常に昭和的ではないか。
犯罪と子供の行為の曖昧な時代。
それで心に傷を負った当時の子供が少なくないはず、ということを、一体どれだけの人間が知っているだろうか。
とにかく、私はスカートめくりをされて、生まれて初めて嘘泣きをした。
ごく自然に嘘泣きできた。
今でこそ、日本でもスカートを男がはくこともあるということが受容されてきたけれども、当時はスカートは女がはくもんだった。
だからこそ、女であるがゆえ受けた屈辱を、女の武器と言われる涙で晴らしてやった。
私が泣くと、男どもはたじたじになった。
ふん、ざまをみよ、と思った。
なんてやつだ、と思うけれども実際思ったことだから仕方がない。
ともあれそれ以来、私は女であるということを進んで選択できなくなったのだ。
女というのが、いかに面倒であることか。
大人になった今では、男だろうが女だろうが、生きていく上で身につけてきたそれぞれの武器というものがあるということを悟ったけれども、当時の自分にとっては、一方的に女が不利なんだ、と思った。
だからもう女ではいたくない、と。
それから、ずっと、セクシュアリティというもの自体に疑問を抱いている。
他人はどうやって自分のセクシュアリティを選択しているのだろうか。
それとも、選択するようなものではなくて、そもそも自分はこれだと、確信を抱いて生まれてきているのだろうか。
いや、選択する必要のないものなのではないか。
誰かに、教えて欲しいものだ、と思っている。